講演会 講演録

  • 2022年5月23日
    「禅に学ぶ人の育て方」
    (2022通常総会特別講演)
    妙心寺 退蔵院 副住職
    松山 大耕 氏

    臨済宗の総本山、全国3,400の末寺を持つ妙心寺

     皆さま経営者の方が多いと思いますが、人材育成はいつの時代にとっても重要な問題です。私ども妙心寺は今から約650年前に創建されました。私はまだ人生43年しか生きていませんが、650年そこにあるというのはすごいことだと改めて感じます。
     なぜそんなに長く続いてきたのでしょうか。もちろん教えが素晴らしい、建物が美しいなど、さまざまな理由があると思いますが、ひとえに「人が育っているから」だと思います。では、禅はどうやって人を育ててきたのか。そこを皆さまに紹介をさせていただきます。
     妙心寺は禅宗の一つである臨済宗の総本山で、全国に約3,400の末寺があります。大きな寺が一つあるわけではなく、塔頭(たっちゅう)という小さな寺が46集まって形成されています。約10万坪、東京ドームが8個入る大きなお寺ですが、その一角に、私が所属する退蔵院があります。その中に、500年ほど前に狩野派第二代の狩野元信という画家が作庭した石庭があります。
     コロナ禍で法事や拝観が激減し、その分できた時間を利用して石庭の砂を洗いました。この石庭に敷いてあるのは京都・白川の上流でしか採れない白川砂で、今はもう採れません。ならば埋まっている部分の砂を掘って洗えば綺麗になるのではと考え、おそらく500年の歴史で初めて、石庭の砂を全部スコップで掘って手洗いしました。するとピカピカになったのです。コロナのおかげで500年ぶりに庭が復活しました。また別の石庭は、私の祖父が造園したものですが、デザインは島根県の足立美術館の日本庭園を手掛けた造園家の中根金作さんです。ここではお庭を眺めながらお茶も飲めるので、皆さまもぜひお茶を味わいにお越しください。

    「利益」「融通」……仏教は意外と身近にある

     普段皆さまがお坊さんの話を聞くのは葬式や法事ぐらいで、あまり機会はないでしょう。しかし実は生活の中で仏教的なものは多数存在します。
     まずは「経済」。英語のEconomicsは元々ギリシャ語で家政学を意味する言葉からきたものです。経済は経世済民(けいせいさいみん)のことであり、これはまさに宗教から出てきた言葉です。
     「利益」は、ご利益(りやく)からきています。「りやく」という言葉の意味は、英語のprofit(利潤)ではありません。「りやく」は本来、「善行の後の報い」を意味します。まずは世のため人のためによい行いをして、それに対する報いが「ご利益」なのです。だから日本の商売は、そこに根本的なところがあると思います。単に利潤を追求すればいいわけではなく、世のため人のために行動し、その報いとしていただくのが「利益(りえき・りやく)」なのです。
     金融関係でよく使われる「融通」。実はこれも元々は禅の言葉で、自由自在であるさまを表す「融通無碍(ゆうずうむげ)」からきています。

    「投機」とは、非連続的な飛躍を促す手段に出ること

     おそらく意外に思われる方も多いと思いますが「投機」も禅の言葉です。現代では「ギャンブル性の高い投資」という意味合いでとらえられていますが、元は禅の言葉で、もちろん「ギャンブル性の高い投資」ではありません。
     「機」には仏教で「非連続的な飛躍」という意味があります。私には7歳と4歳の娘がおり、上の子は今年小学校に入りました。プールが苦手で最初は顔もつけられず、「もういやや。一生泳げんでもええ」などと言うわけです。しかし続けているうちに、突然泳げるようになるのです。あるいは自転車に乗る練習をしていて、初めは転んでばかりで全く乗れず、「なんでやねん!」となる。しかししばらく練習していると、突然乗れる瞬間がきます。一度乗れると、むしろ転べなくなってしまいます。これがいわゆる「非連続的な飛躍」です。
     ほかにも身近な例があります。やかんに水を入れて火にかけると、最初は何の変化もありませんが沸点にきた途端グラグラいい始めます。あの沸点が「機」です。この「非連続的な飛躍」を促す手段を投じることを「投機」というのです。
     会社でも、何度言っても理解しない人がいます。もちろんその本人も悪いのですが、禅の世界では、成長を促せなかった指導者も「投機ができていない」として責任を問われます。

    老師が修行僧時代の私に行った「投機」の思い出

     3歳のとき、ある立派な老師(禅の師匠)が歴代住職の資格を得るという栄えある式典で、人生初めての稚児を務めました。後に縁あって私はその老師のもとで修行することになります。このとき「投機」に関する思い出深い出来事がありました。
     修行中はいろいろなお役目があるのですが、その中で重要なのが、老師の身の回りのお世話でした。初めて老師の食事をつくる仕事が与えられたとき、私はふろふき大根のお膳を用意したのですが、なぜか老師は一切手を付けてくれませんでした。手付かずのお膳の横にはチラシの裏に達筆で書かれた「ふろふき大根の炊き方」の図入り解説が置かれていました。頭が真っ白になり、全身鳥肌が立ったのを覚えています。
     このケースでは、老師が私を怒鳴りつけることもできたし、放置することもできたし、あるいは一緒につくってもらうこともできたかもしれません。しかし老師は「私に一番効く」方法を考えてチラシの裏に図を添えて調理法を書くという手段を選びました。その証拠に、今でもここでありありとその様子を皆さまに説明できるくらい強烈な印象が残っています。このときに書いてもらった解説のおかげで、精進料理とは単なる野菜料理ではないのだということがはっきり分かるようになりました。これが「投機」です。
     いかに人の成長を確実に促すような手段を選択できるか、そこが指導者としての一番の腕の見せ所であり、責任ではないかと思います。このような「気付く力」が今後最も大事になってくるのではないでしょうか。

    「運の良し悪し」は、「何でもすぐやる」かどうか

     二条城で、世界三大投資家の一人、ジム・ロジャーズ氏と堀場製作所の堀場厚会長と3人で鼎談したことがありますが、ロジャーズ氏が「あなたにとって一番の教育は何でしたか」という質問に対して答えた言葉が印象的でした。貧困家庭に生まれながらもオックスフォード大を出たロジャーズ氏にとって、「幼少期、毎日空腹と寒さで死の恐怖におののいていたことが一番の教育だった」そうです。私は個人的に納得がいかず、鼎談終了後彼に聞きました。「世界には貧困で空腹と寒さで死の恐怖におののいている人が山
    ほどいるが、今あなたがそうでないのはなぜですか」。すると彼は「直感(目利きの力)に秀でていたからだ」と言いました。
     脳科学者の中野信子先生は、「運」について、「統計的には、運のいい悪いは一切なく、完全に平等」だと言います。しかし「自分は運がいい/悪い」と言う人がいます。「運がいい」と思っている人々が「悪い」人々と決定的に違うのは、「とにかく何でもすぐやる、非常に好奇心が強い」、これだけだそうです。何でもすぐやる人ほどチャレンジ回数が増えるので、当たりの確率も高くなるというわけです。ジム・ロジャーズ氏の話にも似た意味合いがあると思います。世の中には平等にチャンスが転がっていますが普通は気付きません。それに気付くかどうかが最も重要な違いということでしょう。

    ネズミ被害から地雷解除へ、チャンスに気付く発想を

     友人のベルギー人の禅僧は、音楽鑑賞が趣味で音質にこだわっています。ある日大切にしていたアンプのコードをネズミに噛みちぎられて立腹していたところ、ふと「ネズミをトレーニングすれば地雷の起爆装置を解除できるのでは?」と考えました。周囲から「不可能に決まっている」と言われながら彼は実行に移します。そしてトレーニングしたネズミは地雷を解除できるようになり、実際にアフリカのある国で成功しています。
     ネズミにコードをかじられるという日常の小さな出来事からこの発想ができるかどうか、そこが大事です。
     今、提案されないと選べない人が増えています。皆さんもAmazonやYouTubeなどを利用すると思いますが、アルゴリズムでいろいろと「おすすめ」を提案してくれます。今やこれがありとあらゆる日常生活に入り込んでいるため、チャンス(の種)に気付くことができなくなってきているのです。だからこそ「気付く力は」これからの時代のキーワードになり、人生における大きな差になってくるのではないでしょうか。

    シリコンバレーで見た、エキサイティングの裏側

     近年、禅寺で研修を行う企業が急増してきました。東日本大震災のあった年からある有名企業が始めてから人気が出ました。以降、そうそうたる大企業が次々に来られるようになりました。研修のみならず、取締役会や商談までお寺で行うといった所もあります。「なぜ寺で?」と考えると、やはり場を変えることで気分も変わるからでしょう。日本企業だけでなく、中国・アリババのジャック・マー氏も、幹部会議を比叡山の寺で開催されていました。
     2018年から米・スタンフォード大で客員講師を仰せつかって以来、何度かシリコンバレーを訪れています。現地の書店でマインドフルネス(頭や心を落ち着かせるための手法)の本があふれているのを見て、心の問題を抱えている人がそれほど多いのかと思いました。シリコンバレーではGoogleの研修に行く機会も得たのですが、従業員の心の問題はGoogleでも深刻だと聞きました。毎日朝から晩まで重要な決定をしなければならないため精神的に疲弊し、薬(ドラッグ)に頼る人も多いので依存の問題も出ているといいます。
     なぜマインドフルネスの本やドラッグに救いを求めたくなる状況が生まれるのでしょうか。シリコンバレーは優秀な人が多く、お金も儲かる、楽しくエキサイティングな場所です。しかし仏教的な見方をすると、光の当たる所には必ず影ができる、つまり光と影は表裏一体であり分離できないものといえます。「エキサイティング」の裏側、それはすなわち「不安」。いつ新しい技術ができるのか、いつ自分よりすごい人材がやってきて自分のポジションがなくなるのか、常にエキサイティングと不安が表裏一体となった世界なのです。
     そのような人生を否定するつもりは全くありませんが、とても疲れることは確かです。違う生き方も当然あっていいのではないでしょうか。そんな中で、650年続いているわれわれのような禅寺で説かれる、シリコンバレーのビジネスとは全く異なる哲学を学んでみたいという方々が増えてきているわけです。

    おいしいラーメン店と普通のラーメン店の違いは?

     企業が製品やサービスを生み出す過程で、一番大事な所をアウトソーシングしたり責任放棄したりすると、中途半端なものしかつくれなくなります。例えばラーメン店を出そうとすると、今ならまずマーケットリサーチをします。麺やスープや具はどれがいいかリサーチして、一番人気が高いものを選んでいく。こうして完成するのは果たしてどんなラーメンでしょうか。“まずくないラーメン”です。チェーン店の味になるのです。
     本当においしいラーメン店は、データではなく店主が自分の舌で研究して感性を磨き、自分が最高だと思った味を出します。
     普通に日常生活をしていると、気付かないことばかりです。私は修行に行って大きく二つの変化を体験しました。一つは、感情の波が緩やかになったこと、もう一つは気付く力が洗練されたことです。一番厳しい修行は12月に行う1週間不眠で行う座禅です。最も睡魔に苦しめられるのは初日で、5、6日目くらいになるとなぜか眠くなくなります。感覚が研ぎ澄まされてシャープになるので、妙心寺から7kmほど離れた梅小路公園の蒸気機関車の音が聞こえるし、かすかな空気の動きさえ感じられるようになります。

    修行すると、無意識だったものが意識できる

     修行中、老師に「なぜこのような苦しい修行をするのか」と聞いたことがあります。老師は「理由は二つある」として以下のように答えてくれました。
     一つ目が追体験。世界中に禅の本が何十万冊とあり、多数の高僧がいますが、何冊本を読もうが何人のお坊さんの説法を聞こうが、お釈迦さまがたどり着いた境地がどのようなものかを知ることはできません。だから、たとえ全部は分からなくとも、同じように厳しい修行をしてその一部でも追体験しようとするのです。
     二つ目は無意識の顕在化。普段人は、雑音なども含め、五感を通じて脳に入ってくるあらゆる情報の5%くらいしか意識しておらず、残りの95%は無意識の領域です。寝ずにひたすら座禅を続けると、無意識の領域があらわになり、普段は脳がノイズとしてキャンセルしているものも意識できるような体験ができます。いろいろなものに気付けるようになるというのは、こういうことです。
     多くの人は普段からそのようなことを意識できないし、自分自身を深く洞察する時間も場所もありません。だからそれをお寺で求めるのだろうと思います。

    禅の「シンプル」を突き詰めて生まれたiPhone

     禅は約2000年前にインドで生まれ、約1000年前に日本に伝わりました。禅の特徴を簡単に申し上げると、一つが「シンプルである」ことです。東南アジアの寺院は、建物も涅槃(ねはん)仏も金色で彩られ、派手な印象を受けます。一方日本の禅寺は茶色のミニマルデザインで、石・砂・苔だけの石庭があって、食事は一汁一菜と非常にシンプルです。そこに座禅を組んで心もシンプルに、とにかく全部シンプルにしようとします。
     禅が世界で関心を持たれている理由はいろいろありますが、一つにはスティーブ・ジョブズ氏の影響があると思います。ジョブズ氏は禅と京都を愛し、ご自身の結婚式も葬式も日本の禅僧に依頼されました。彼が最初にiPhoneのモデルをエンジニアにつくらせたとき、ボタンが三つあるのを見て「複雑過ぎる」とNGを出しました。「ボタンが三つもあったらどれを押していいか分からない。もっとシンプルでないと世界中全ての世代に受け入れられない」と、シンプルを極めて完成したのが、あのボタン一つのiPhoneです。ジョブズ氏は「シンプルである」ことの重要性を禅から学んだのです。

    実践を積み重ね、内部が変化→オーラが表出

     もう一つが「実践・体験を重んじる」ことです。言葉ではなく実践・体験の中からの学びを一番大事にするのが禅です。仏教修行の三つの欠かせない要素を表した「聞思修(もんししゅう)」という言葉があります。「聞」は座学、つまり勉強を意味します。「思」は思考で、なぜそれをするのか、どんな意味があるのかを考えることです。「修」は実行すること。セオリーを学び、なぜかを自分で考え、それを実践するという3要素です。
     この順番に着目してください。ほとんどの会社で「聞思修」の順番通りに人を育成していると思います。それでうまくいく場合もありますが、そうでない場合も結構あると思います。子どもに水泳や自転車の乗り方を教えるのに、動画やハウツー本を見せて「やってみろ」とはなりませんよね。実践あるのみです。
     つまり禅は「修思聞」の順番でトレーニングするのです。「とりあえずやれ」から入り、修行を2、3年すると「なぜこれをしなければならないのか?」と自分で考え始め、修行を終えてから、セオリーや歴史を勉強していくわけです。食事の給仕一つとっても、何か所作をするたびに頭ごなしに怒鳴られる。はじめは訳が分かりません。「なぜそこまで」と思いながらも2年3年と修行していくと、歩き方や合掌やお辞儀の所作が新人の修行僧と比較にならないほど美しく洗練されたものになります。「こうすれば効率的に質を上げられる」という話ではなく、ひたすら積み重ねることによって人間は内部から変わっていきます。
     禅の総本山である東福寺の前の管長を務めていた立派な老師の方が、布教で訪米した際にハーバード大で講演されました。その老師はとても小柄で英語は話せませんが、大教室の真ん中にすっと立っただけでガヤガヤしていた室内が静まりかえりました。オーラです。
     宗教家は、このように強烈に人を引きつけるオーラを持っていないと意味がないと私は思っています。それはセオリーどうこうではなく、日々の鍛錬の中から自然に身に付いてくるものです。美しく洗練された所作や形を毎日ガミガミ言われながら体得していくことによって、内面から変わり、表出してくるものです。古臭いと言われるかもしれませんが、「修思聞」を今でもわれわれは大事にしています。

    禅の育て方~「言われたことはしない」の真意とは

     禅が長く続いているのは人を育てるからです。育て方の一つ目が「言われたことはしない」。これはつまり、「言われたことではなく、見たことを真似して実践するように育てよ」ということです。道場では修行期間の長い人ほど大変な作業を率先して行います。なぜなら、見せないと伝わらないからです。
     二つ目が「観る」こと。修行中は常に怒られる身ですが、あるときの説法で老師が「君たちは偉い」と言ってくれました。老師が現役修行僧だった頃は、修行自体は今より厳しかったが、道場の外にも特に娯楽はなく、外との差はほとんどなかったそうです。しかし今は道場から一歩出ると、コンビニで24時間好きな物が買え、エアコンやインターネットのある生活が存在し、内と外の生活クオリティが全く違います。「そんな中でわざわざつらい修行を志してやってくる君たちのほうがよっぽど偉いと思う」と。それを聞いて、私たちを何としっかり“観て”くださっているのかと、大変感動を覚えてモチベーションが一気に上がった記憶があります。「観」には「心の目で見る」という意味があります。単に「見る」ではなく、心の目で見て伝えることが重要です。

    禅の育て方~「わざと教えない」の徹底ぶり

     三つ目が「わざと教えない」。修行で行う禅問答で、老師は絶対に答えを教えず、自分であらゆる工夫を尽くすよう仕向けます。私は7カ月もの間一つの問いに答えられなかった経験があります。もう何も出ない、と諦めの境地で出した答えに「おおそれじゃ、それも禅なんじゃ」と言われましたが、自分で答えておきながらなぜそれが答えなのか全く分かりませんでした。
     しかし修行を終えて2、3年ほど経ったある日、当時老師が伝えたかったことにハッと気付き、気付いたことがさらなるステップアップにつながりました。禅問答でなぜヒントや答えを出さないかというと、出してしまうと「ふーん」で終わって何も残らないからなのです。3年間修行してたった一問しか解けなかったとしても、本当に腹の底から分かったのなら、そのほうに価値があると考えるのが禅の世界です。これは修行でも徹底されています。
     修行初期の頃に食事係を務めるのですが、引き継ぎの猶予がほとんどないので、みんな薪でご飯を炊くのに苦労します。そのたびに怒られるわけですが、毎日朝昼晩やっていると大抵は2週間〜1カ月もすれば美味しいご飯が炊けるようになります。
     これは、「美味しいご飯を炊く」というタスクベースで考えれば、引き継ぎに2週間かけて、失敗しない美味しいご飯の炊き方を先輩から教わるのが効率的です。しかしわれわれは絶対しません。それをしてしまうと盲目的にその方法だけをとり、自分で試行錯誤しなくなるからです。われわれの修行の目的は「美味しいご飯を食べること」ではなく、「人を成長させること」。だからこのような手法をとります。「わざと教えない」、つまり自分で気付かせるわけです。
     四つ目が「すぐに動け」。妙心寺の創建当初の話ですが、天井から雨漏りしているので和尚さんが弟子を呼んだところ、一人はすぐに飛んで来たが持っていたのは竹ざる、後で来たもう一人は鍋を持っていました。褒められたのは先に竹ざるを持って来た弟子。これは極めて禅的な話です。雨水をつかまえることと、人の心をつかまえることは全く別物だということ。和尚さんは別にざるでも鍋でもどちらでもよく、すぐに動いたことを評価したのです。
     普段皆さまは、宗教や禅をなかなか身近に感じられないかもしれませんが、会社でもご自身の仕事でも役立つ知恵がたくさんあふれています。ぜひ昔からの知恵に親しんでいただき、今後のお仕事に役立ててもらえればと思います。

TEKTON - 日本建築材料協会デザイン委員 -TEKTON - 日本建築材料協会デザイン委員 -