講演会 講演録

  • 2025年7月24日
    「スカウトから見たプロ野球の景色ー人材発掘、採用と育成のマネジメント」(2025年通常総会記念特別講演)
    池之上 格氏

    鶴丸高校からプロ野球へ~野村監督との出会い

    皆さま、こんにちは!!
      私は現在、電気、ガス、水道などライフライン全般のお困りごとに取り組む株式会社アイコンホールディングスという会社で顧問を務めています。プロ野球関係者のネットワークを生かし、営業の御用聞きや人事採用を担っております。もう71歳になりますが、この歳で今こうして皆さまの前でお話ができることは非常に光栄です。ここに至るまでのプロ野球人生48年の足跡をお話しできればと思っております。
     私は鹿児島県立鶴丸高校という進学校に入りました。当時は神童と呼ばれるほど勉強がよくできたのですが、入学前に中学の先生から「鶴丸高校で野球はできんぞ。一生懸命勉強しても、追いつけるかどうか分からんぞ」と言われたのです。医者になれるかも、いやもっとすごい人になれるかも、と夢いっぱいだった私は「野球はしません。勉強を一生懸命頑張ります」と言って高校へ入学。しかし井の中の蛙であったことを思い知らされます。自分より勉強のできる生徒が山ほどいる。気が付くと野球部の練習をずっと屋上から見ている自分がいました。「野球をすれば何か変わるかもしれない」と思い、結局野球部に入部します。私の48年間のプロ野球人生は、約束不履行からスタートしております。 1973年、南海ホークスに入団したのですが、私は体力が弱く、グラウンドを走っても「歩いてんのか」と言われるほどでした。その弱さを見て「俺より遅いのが来てくれた」と喜んだのは、今日の私をつくった師匠の一人である野村克也監督でした。

    私をつくった5つの言葉

    私の原点となっているのは、入団最初の1973年2月のキャンプで得た5つの言葉です。

    (1)俺の色に染まれ

     私の師匠は、野村監督と穴吹義雄(二軍の監督)でした。穴吹監督は家族の家を3軒建てるほどの契約金を得た選手で、指導者としてもスペシャリストでした。キャンプで、穴吹監督が入団したばかりの私たちに言ったのが「俺の色に染まれ」という言葉。「お前たちをプロ仕様に仕上げるために、俺が手ほどきする」ということです。私は初めて聞いたその言葉に強烈なリーダーシップを感じ、素直に「この人について行こう」と思いました。

    (2)大きな声を出せ

     「俺の色に染まれ」の次に言われたのが「大きな声を出せ」。プロ野球の世界で大きな声を出すというのは、自分と相手を守る大切な行動です。フライが上がったら、内野手が大きな声を出して取る。さもないと野手同士が衝突して大変な事故につながります。
     大きな声は、危険を避けるためのプレー上の確認だけでなく、挨拶でも大事です。「大きな声で挨拶しよう」も私たちが口酸っぱく先輩諸氏から言われたことでした。自分も相手も守る大きな声は、挨拶の重要性にも通じる、これを徹底して指導されました。「挨拶が遅い! 声が小さい! 目と目が合ったら挨拶!」と当時18歳の私たちは叩き込まれました。プロ野球選手の前にまず一社会人たれ、という教えがそこにあったのでしょう。

    (3)全力疾走せよ

     もう一つやかましく叩き込まれたのは「全力疾走せよ」。打者が凡打で一塁までゆっくりと走っていると、そのとき守備にエラーが生じても間に合わないことがあります。だから凡打の後でも全力疾走。練習ではよく赤いコーンを置いてその間を全力疾走するのですが、必ずコーンの手前で抜く選手、最後まで抜かずに走り切る選手がはっきり出ます。これを10本やっても、9本まで全力で走っても最後の10本目を抜く人がいる。最後に力を抜いたらゼロです。全力疾走を一生懸命継続していかなければ意味がありません。全力疾走は、体を強くする上で一番のキーポイントになっていると思います。

    (4)欠点矯正か、長所を伸ばすか

     そのキャンプのミーティングで、野村監督は「プロ野球選手にとって、長所を伸ばすか欠点を矯正するか、どちらが大事だと思うか」と門田博光選手と私に聞きました。私は「自分は体力が弱く欠点・短所だらけで長所がないと思っています。だからもし私が体力的な強さを得るなら、欠点・短所を徹底してカバーしていかねばならないと思います」と答えました。
     当時飛ぶ鳥落とす勢いだった門田選手は、「私は長所を伸ばします。打って打って打ちまくります」との答え。そして野村監督は「俺も池之上と一緒や」と言いました。例えば内角や変化球が打てないなどの弱点を見せると、そこを集中して突かれるので、弱点をカバーして自分の平均値を上げるのだと。プロ野球選手として長く続けていくためにはそこが大事だと言ったのでした。
     そのためには、今の自分を知ることが重要であるという学びも得ました。レベルが上がるにつれ、また別の問題が出てきますが、その都度自分の状況を知って、弱点を矯正していく必要があるのです。

    (5)慢心せず、失望せず

     さらに野村監督からは「慢心せず、失望せず」という言葉もいただきました。よいときも悪いときもある。だからとにかく準備をしておけ、ということです。野村イズムとも呼ばれる彼の野球は、「考える野球」でした。「考える野球」とはすなわち「準備野球」です。準備することが勝負に勝つためにいかに大事かということを、プロ入り初期の段階にこの文言から学びました。

    ピッチャーとして一軍へ、そして味わった挫折

     4年目の1976年、私はピッチャーとして一軍入りしました。忘れもしない7月25日、天神祭りの日、野村監督とのバッテリー。ご記憶の方もいらっしゃるかもしれませんが、その試合で私は「あと1球」コールが延々と続く中で一死もとれず、1イニングで3回も暴投したのです。野村監督を3回もバックネットまで球拾いに出したのは、おそらく私だけでしょう。9回表で11失点したとき、やっと野村監督が来て「おい、ストライク入らんのか」、「はい」、「交代じゃ」。そして交代し、後続の佐々木宏一郎投手がわずか1球でアウトにしました。私はもう何が何だか分からない状況で、その夜はミナミではしご酒をしました。翌日野村監督は私にこう言います。「昨日飲んだんか。酒を飲んでもピッチングは上手くならんぞ」。
     プロ入り4年目でピッチャーとしての挫折を味わい、そこから再び野村監督とバッテリーを組むまで1年かかりました。その頃は江夏豊投手が抑えのエースで入られた時期。そんな状況の中ピッチャーとしてプレーしてきたのですが、7年目までピッチャーを続けた後、最終的には1980年、26歳で野手に転向しました。

    野手として~バットに当たらないなら、体で!

     野手に転向したときの監督は広瀬叔功さんでした。ピッチャー時代から、野手になれとずっと言ってくれていた人が一軍の監督だったのはラッキーでした。
     私は野手を務めた9年間で256安打を打ちました。2004年、この256安打をイチロー選手が1年で破ったのです。いかにとんでもない選手であるかを思い知らされます。1983年のシーズンでは、デッドボール16個という記録もつくりました。バットに当たらないのなら体に当たってでも塁に出よう、そんな気持ちでとことんやっていました。だから今でも、インコースの球から飛んで逃げる姿を見るとつい、「アホか、当たらんかい!」なんて口にしてしまうんですよ。勝負事は、やるかやられるか。だったらやっつけようや、と思っています。
     こうして16年の現役時代を南海ホークスと横浜大洋ホエールズ(現DeNA)でプレーさせていただきました。
     私が選手として一番大事にしていることは、自分で可能性に線を引かないこと、素直に聞く耳を持つこと。自分で言うのもなんですが、私は素直に取り組める能力があったからここまで努力できたのだと思っています。だからスカウトの際にも「この選手には努力する能力があるかどうか」を見るようにしています。
     「史上最強のアンダースロー」と呼ばれた杉浦忠さんが監督だったとき、32歳の私は選手会長の立場で「私に魅力を感じたら使ってください」と言いました。使われなくとも、二軍でも、魅力ある選手でありたいという思いで頑張れました。もし私がその当時、「使ってもらえん」などと杉浦監督のせいにするようなことを言っていたら、今日の私はおりません。天に唾すると言いますが、人の悪口を言えば必ず自分に返ってくる。
     私が現役を終えてスカウトとして戻ったとき、杉浦さんはダイエーホークスの編成部長でした。狭い球界、陰口の類は絶対に伝わるんです。「お前こんなこと言ったらしいな」となったときには、もう次はありません。
     100球以内で完封すると「マダックス」として記録されるのですが、16年プロ野球をやってきた中で、1度経験しました。野村監督とのバッテリーで3度の暴投を喫した1年後、日本ハム戦にて90球で完封勝利を果たすことができました。通算成績は、ピッチャーとしては2勝0敗、バッターとしては256安打、15本塁打、打率2割6分9厘、打点97です。かつての日本生命球場では、近鉄バファローズの鈴木啓示さんから3本のホームランを打ちました。鈴木さんは、会うと「池之上君からはよう打たれた」と言ってくれます。
     このような戦績で現役を終えた後、私はスカウトという仕事に臨みました。

    スカウトはチームの裏方であり、かつ最前線

     スカウトはチームを強くするための最前線であり、裏方でもあります。スカウトが無能ではチームが成り立ちません。そこは企業の人材採用と同じ。私は、「ドラフトと育成で勝つ」と銘打って、ダイエーホークス、その後阪神タイガースでスカウトに取り組んできました。
     ダイエーホークスでは10年間スカウトを務めました。今小久保裕紀が福岡ソフトバンクホークスの監督を務めていますが、1993年に彼を獲得したのは私たちでした。巨人との熾烈な獲得争い。彼の所属する青山学院大学経済学部長の部屋を訪問し、学部長とバチバチにやり合いながらも、巨人入りが確実視されていた小久保選手にこちらを向かせたわけです。
     そういうスカウティングをダイエーホークスは実現してきました。小久保に始まり、井口資仁、城島健司、斉藤和巳を入れ、いろいろな選手を揃えていき、私がスカウトを始めた1990年から10年後の1999年、初めてダイエーホークスが王貞治監督のもとで優勝しました。チームをつくるには、時間がかかるのです。ゆうに10年はかかります。
     阪神タイガースには2001~20年まで在籍。2023年、岡田彰布監督が18年ぶりの優勝、38年ぶりの日本一を成し遂げました。誰もが岡田監督を大絶賛しましたが、私は「岡田だけちゃうやろ!」と心の中で叫んでいました。岡田監督が最高の監督であることは間違いありませんが、優勝・日本一という花を咲かせるまでに土壌づくりから水やりから、苦労したのは誰なんですかと。チームをつくってきた裏方なんですよ。
     私は阪神タイガースでも、「誰が監督になっても優勝できる強いチームをつくりましょう」とずっと言ってきました。フロントである会社が主導してチームを編成すれば、タイガースの風土や理念さえ分かってくれる方なら、たとえ実績がなくとも、誰に監督を任せてもいいのです。
     勝つチームをつくるには時間がかかると言いましたが、ダイエーホークスでのスカウト時代は、当時の会社幹部から、「お前らどんだけ金をドブに捨てるんや。投資ばかりで回収できてへん。ええ加減に結果を出せ」と言われていました。お金を使わないと見返りはありません。だから私たちは投資と回収のバランスの中で苦労しました。私はスカウティングに関し、「選手を取ったら勝ち」というところに自らを置いていたので、そのためにお金は使わねばなりませんでした。ある年のスカウトで選手を獲得できなかったことが原因で、私はダイエーホークスを退くことになりました。しかし私が交渉で逃した選手は他球団で伸びなかったため、あのとき交渉に成功していたらかえって球団のマイナスになっていたこともあり得るな、と後になって思いました。

    2023年の阪神勝利には、何年もの布石があった

     スカウトで獲得した選手がプロ野球に多数入ってきていますが、本当に投資、投資、投資ばかりです。回収とは何なのか? 今、満員の甲子園球場で頑張っているレギュラークラスの選手たちが、回収の段階に入っていると言えます。従って、ほとんどが投資です。選手が伸びるかどうか、これは本当にやってみなければ分かりませんが、とにかく「ドラフトと育成で勝つ」というのが、私たちのスカウティングのありようで、ずっと一貫してやってきました。
     岡田監督による2023年の勝利の根底をつくったのは、2016~2018年に監督を務めた金本知憲だと私は思っています。金本監督は、自分がやれといった練習を、トレーナーを通じて徹底的にやらせました。彼の3年間で阪神タイガースの方向性がある程度定まり、その後就任したのが矢野燿大監督です。矢野監督はとにかくポジティブで、喜びを前面に出すタイプ。彼は常に「諦めない。積極的に誰かを喜ばせる、これが仕事であり、プロ野球の務めだ」と若い選手に言っていました。金本・矢野の7年間で25人ぐらいが一軍登録しています。だから私はこの7年間が2023年の勝利に結びついたと思うのです。岡田監督の咲かせた花だけではなく、茎も葉も、土壌も見てほしい。土壌をつくったのは野村監督、水を与えたのは星野仙一監督、そのような脈々とした流れがあっての2023年でした。

    藤川球児との思い出

     2025年シーズンから、藤川球児元投手が阪神タイガースの監督を務めています。私は藤川球児との思い出がたくさんあります。彼が二軍で来ていたとき、立ち話なんかで、私に球団や選手のことをいろいろ言うわけです。私は彼に「球児、お前絶対にGMになれよ」と言い、メールでも励ましました。すると彼は「頑張ります!」と返事をくれる。
     その後しばらくの間を経て、藤川が現役を引退しようとしていた頃、話す機会があったので私は「球児、大過なく来られてよかったな」と労いのつもりで言いました。すると彼から返ってきたのは「え? 大過なくですって? もう私はボロボロでしたよ」という言葉。私が「あの山の上(マウンド)は最高やろ?」と言うと、「何を言ってるんですか? あそこは崖っぷち、断崖絶壁ですよ。私はあそこで踊っていました」と言うのです。
     あのとき藤川には本当に申し訳ないことを言ったと思っています。ボロボロな体を押して登板し、並みの人間なら到底立っていられないであろう断崖絶壁で踊っていたのだと。ただただ感じ入りました。試合の解説を聞いていても、洞察力も語彙も通常とは違うレベルにあるのが分かります。これも野村監督のもとで1998年から3年間勉強したからでしょう。まだまだできたかもしれないけれど、あの3年間が今日の阪神タイガースの礎になっているはずです。
     今年2月の沖縄で、監督になった藤川と会ったとき、二人で抱き合って喜びました。そして会った瞬間に「池さん、いつもメールありがとうございます。頑張ります!」と言ってくれたのです。こんなにうれしいことはありませんし、今でも思い出すと涙が出てきます。

    「自分には運がある」と思うこと

     ダイエーホークスのスカウトを退いた後、阪神タイガースのスカウトとして招かれたとき、私は運がある、と思いました。当時の監督は野村さん。1973年に現役で出会い、2001年にまた一緒になった。球界を回り回ってまた一緒になれるなんて、なんて自分はついているんだろうと感じたものです。
     ここにいる皆さまも、「自分には運がある」と思っていらっしゃるでしょう。運があると思っていない人は今日ここにいないと思うのです。みんなそうで、思わなければやっていられないからです。
     野村さんは阪神タイガース退団後の2003年、社会人野球のシダックスの監督に就任しました。その頃日本経済新聞の「私の履歴書」というコーナーで野村さんが掲載されていたのですが、「私は阪神タイガース時代に、他球団から有能なスカウトを招き入れた」というくだりがあったのです。私は野村さんに直接聞きました。「あのスカウトというのは私のことですか?」「そうや」という返事。しっかり言質を取っておきました。

    スカウトは獲得だけにあらず、育成こそ重要

     先ほど、阪神タイガースの2023年の勝利は金本・矢野両監督の7年が大きいと申し上げました。それまでの布石ももちろんありますが、一番チームが変わったのがその7年でした。私は常に球団のフロントとして、育成のためにチームのそばにおりました。会社で言うなら仕入れや人材登用がスカウトです。今の会社(チーム)に何が必要かを見極めて導入、採用する仕事。そして次に最も大事なのが育成です。
     これを担うのはコーチ陣です。スカウトで取ったのはいいが、誰が指導するのかということ。私はあるとき、重鎮中の重鎮である駒澤大学野球部の太田監督から、「池之上君、バッテリーコーチは誰だ?」と聞かれたのですが、誰それです、と答えると、「ああ、大したことないなあ」と言われてしまいました。やはり誰が指導しているかについて、アマチュア球界や監督さんたちは非常に気にされます。だからこそ指導、育成が最も重要なのです。
     私たちはフロントとして、選手たちにいろいろな指導を行います。ミーティングを開き、さまざまな指導者を招き、野球日誌を書かせ、それを添削し……本当に何でもやります。それをやって、確実に勝つ保証はありませんが、ないよりはいいに決まっています。
     今、阪神タイガースの才木浩人選手が大リーグを目指しています。去年は13勝したので「いよいよ大リーグが近くなったな」とLINEを送りました。挨拶と同じで、こうして選手とつながることはとても大事です。
     今日は昔のことも紐解いていろいろと話しましたが、究極の要点は「お互いに元気よく挨拶しよう」、この一行に尽きるでしょう。そんなことだけかと言われるかもしれませんが、これが世の中のスタートですし、このスタートさえしっかりしていれば、コミュニケーションもどんどん進むし、いつまでもつながっていることができます。皆さまも、いつどんなときでも、元気に挨拶し合いましょう。これが私の言いたかったことです。

TEKTON - 日本建築材料協会デザイン委員 -TEKTON - 日本建築材料協会デザイン委員 -