2007けんざい
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講演会の予定・講演録
「モーツァルトと女たち」-「女」を愛したモーツァルト、甘えん坊のモーツァルト

   音楽評論家 井上 和雄 氏

音楽家としても人間としても天才だった
 ヨーロッパのクラッシック音楽で「女たち」って一体なんの話かと思われるでしょう。ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、バッハ、ブラームス……音楽室にあった作曲家の肖像画みたいに、鎮座ましましているという感じです。
 しかし音楽に長年親しむと、人間がおもしろくなってきます。モーツァルトのふざけっぷりに「こいつ一体なんやねん?!」と。でもポロッと涙を流すこともある。ベートーヴェンはしつこいタイプですが、同時に楽譜でコテンと参らせてしまう。作曲家にもいろいろあるのです。
 女好きは基本的に甘えん坊です。モーツァルトは「無駄口をたたいたすべての女性と結婚しなければならないとしたら、僕は200人もの妻を持たなければならない」と言ったくらい女好きでした。彼のオペラ「フィガロの結婚」にフィガロの恋人として登場するスザンナという女性はキュートでチャーミング。伯爵夫人という成熟した女性も登場しますが、歌うと男がコテンと参ってしまうような姿を持っています。
 「ドン・ジョバンニ」というオペラにもチャーミングな女性が多数登場します。「ドン・ジョバンニ」はスペイン語でドンファン、つまり女たらしです。片っ端から女性たちをものにする。最後にドンナ・アンナという女性をものにしたくせに振ってしまう。騎士長であるドンナ・アンナの親父が出てきて、「こんな男許すわけにいかん」と言ってドン・ジョバンニと決闘、親父は命を落とします。ところが、その後ストーリーは、死んだはずのその騎士長に呼び出され、ドン・ジョバンニは地獄に落ちて死ぬという結末です。
 皆さんのドン・ジョバンニに対するイメージは分かりませんが、モーツァルトがドン・ジョバンニというオペラを書くことによってドン・ジョバンニはドン・ジョバンニになりました。単なる色男ではなく、女性のために地獄に落ちるなら本望だという男に、です。19世紀以降ドン・ジョバンニは必ず、最後に地獄に落ちる演出になるというくらいモーツァルトの影響を受けます。モーツァルトは単に音楽の天才なだけではなく、人間としても天才だった。人間、才能だけでは成就しません。もっと究極的な力が必要です。つまり人を感動させる力。モーツァルトにはそれがありました。
 音楽はドレミファソラシドという音階でしかないですが、音楽の持つ力は、例えばベートーヴェン「運命」のオーケストラ演奏を生で聴けばわかります。脳天を割られるような力です。これはベートーヴェンにしかできなかった。これ以降もないでしょう。モーツァルトはそんな大げさなことを言わずにほろっとさせました。心の奥で感動させる力はベートーヴェン以上にあったと思います。それは人を愛する力であり人に共感できる力。そのまま女性に対する理解力であり共感力でもあります。女性関係でその人がどんな人間か一番よく分かるのです。もう少し分解していくと、次に母、そして父との関係です。人間として成熟するカギはやはり母子・父子関係です。これが根底にあり、社会環境、人との出会いなどがからんできます。
母は甘えられる存在、父はマザコンを阻止する存在
 この世に産み落とされたときに何もできないのは人間だけ。ただひっくり返って泣くだけ。そんな状態で人はどうやって生きていくのか。これはひとえに母の存在にかかっています。母親は神のごとき存在。この存在によって赤ちゃんは安心感を獲得します。脳細胞に、愛されて一番幸せなときの回路を形成してしまうわけです。「愛される幸せ」、あるいは「甘えられる幸せ」は、今日のテーマに重なってきます。
 男女が惚れるということは、甘えられることなんです。自分の短所やコンプレックス全部ふくめて、自分のありのままが許される。その人の前なら幸せになれるような女性を見つけたときに、男は惚れます。自分のすべてを許す存在、そして自分であることがすばらしいと思える存在。これは母親との原点であった体験です。それが実現できるような女性を男は求めます。われわれはそうインプットされているんです。そして母のような愛を注いでくれる存在をいつも求めています。母はいずれ年老いて死にますが、母の存在は確実にある。日本の仏教でいえば、慈愛に満ちた観音様。
 もちろん母子が離れられない状態がいつまでも続いたら具合が悪いので、第3の男つまり父親が出てきます。要するに、マザコンを阻止するのが父親の存在。社会の見方や、一人で生きていくための力を授けるための最も象徴的な存在です。
ステージパパだったモーツァルトの父親
 ただ、モーツァルトの父親はちょっとややこしかった。ステージパパなんです。著名な音楽家でも、子どもに入れこんで自分の人生をかけるステージママがいますね。モーツァルトの父親がそうだった。3歳のときに書いたピアノコンチェルトに感動して、涙を流して喜んだ。5歳で作曲して、6歳でいきなりバイオリンを弾く。父親は、これは神から授かった才能だから、これを育てることが神からの使命だと思います。そして父親から溺愛されるという状態に陥るのです。溺愛しながらも、音楽家にするための実務能力に長けていました。
 当時ドイツはまだ300余州、日本の藩みたいなものなので、王侯貴族に手紙や手形をもらって、藩札のようなものを用意しないと次の村や宮殿に行けません。ヨーロッパ中そんな状態ですから、偉い人に近づいて御前演奏してそういうものをもらいました。実に緻密なマネジメントだったのです。損得のけじめもきっちりしていました。父親は音楽家としても非常に優れていたため、モーツァルトは父親にはかなわないという思いも抱いていました。ただ溺愛されていただけではありませんでした。
 父親と息子の関係は、いろんな場面で影響を及ぼします。父親に完璧に打ちのめされたら子どもは母親のところへいくしかありません。そうするといつまでたってもマザコンから脱却できない。自分も男としてやっていけるんだ、でも偉い人強い人にはやはりかなわないという、現実を受け入れる能力を学ばねばなりません。挫折、ではなく屈服。そんな形の関係がモーツァルト父子にはできていたのではないでしょうか。
 モーツァルトはベートーヴェンよりも豊かな心を持っていると思います。それは音楽で伝わってきます。ベートーヴェンは死ぬまで世の中の不条理にがまんならなかった。最期までその不条理を告発して死ぬ。人生、不条理で腹の立つことばかりです。ベートーヴェンの気持ちはよく分かります。しかし、それも仕方がないこと、悲しさをかみしめて生きていこう、というように、現実をうまく自分の中に取り入れて、糧にして次の一歩をいかに、踏み出せるか。モーツァルトにはそれができました。そこがモーツァルトの音楽の偉大さです。モーツァルトは小さいときに危機的状況を経験したことでしょう。しかし危機の中から養分をしっかりくみ取って、とうとうドン・ジョバンニのようになりました。
良妻賢母と「いい女」の違いとは?
 次のテーマは「奔放な恋」。ベーズレという女性がいました。モーツァルトがベーズレにあてた手紙が残っているんですが、オナラだとかウンコだとかいう言葉をたくさん使って面白おかしく書いています。当時、ドイツ圏はスカトロジーといって、排泄物にまつわるユーモアが好まれていたんです。こういう当時の文化的背景もあるんですが、それにしても言いたい放題です。ところで、200人も妻にめとらないといけないぐらいに愛した中で、最愛の女性は妻のコンスタンツェでした。コンスタンツェは一般的に悪妻といわれていますが、私は「いい女」だったろうと思います。
 コンスタンツェへの手紙も残っています。「ぼくのわんぱく小僧を思い浮かべてください」「あなたのすばらしい××××にぴったりです」などと、実にユーモラスに妻への愛を語っています。モーツァルトは「いい女」を求めてコンスタンツェと結婚しましたが、彼女は本当に悪妻なのでしょうか。世に言う良妻賢母とは、家事全般や内助の功、夫の尻ぬぐい、子どもの教育など、社会的役割を賢くこなす女性のこと。「いい女」とは、男から見てチャーミング、色気がある、一言で言うと抱きたい女性。それをモーツァルトが求めて何が悪いのでしょう。男としてはできれば両立してほしい。奥さんがいつまでもチャーミングないい女であってほしい。そう考えると、35歳で亡くなったモーツァルトは、いい女に惚れて、逝ってしまった、それで十分なわけです。私は、いい女であることは人間としてすごいと思います。
 男のアイデンティティは社会的役割のところにありますが、女性は社会的役割とは関係なしに、女性であるということだけで女の証しを立てることができます。山口百恵さんは自分がスターであることを惚れた男のために平気で捨てました。三岸節子というすばらしい洋画家も、男のために一度絵を捨てています。男は社会的地位あるいは実力を獲得したときに初めて男たりえるという観念があります。人間を支えているのは金だと言う人もいます。だけどそれは観念にとらわれているだけで、金はそんなに大事じゃないという立場も当然あります。男は生きる支えになる何かがあれば幸せです。男は観念に生きているのです。これは現在を生きるというよりも将来のために生きることを意味します。
 女性は違います。今というものを全身の感性でとらえ、今を生きます。男は資本主義の中の会社システムに絞り取られて、はいごくろうさんで終わり。女性は自分の人生を生きます。どうなってもステキに生きていける。だから今、喫茶店でも山でもどこでも女性が多いのです。女性の現実主義は素晴らしい。モーツァルトがコンスタンツェを愛したのは当然のことであって、悪妻なんかではなかった。女性がコケティッシュであることは女性の落ち度ではないというのが私の持論で、モーツァルトはいい女を精一杯愛したのです。

自由な時代で自由に生きたモーツァルト
 ヨーロッパの18世紀は資本主義がまだ生まれておらず、非常にいい時代でした。貴族が自由に生きていました。教科書では絶対王制で住民がしいたげられていたとありますが、これほど自由に生きていた時代はないんです。モーツァルトは貴族ではありませんでしたが、貴族の中で一緒に生きていきました。だから女性に対してもそんな自由さみたいなものがあったわけです。
 19世紀から資本主義が生まれて、人間は働くことが善であり、将来のために今を犠牲にすることが男の道だという話になってきました。しかしホモサピエンスとしては道を間違えたのではないでしょうか。
 日本でも江戸時代までは藩がありました。藩は運命共同体として自然発生的に生まれたサイズ。人間がホモサピエンスとして自分たちを運命共同体と感じ、よその藩と戦って自分の土地を守り、それが自分の家族を守ることだと掛け値なしに思えるサイズなのです。資本主義が出てきてそれを全部ローラーで伸ばしてしまい、国家を打ちたてて現在の社会ができあがりました。私は社会科学者・経済学者としてそんなことをずっと考えながら、一方で音楽の世界も見てきました。そうするとモーツァルトの人生を見て「お前ええなぁ」なんて思ってしまうわけです。そんな気持ちの一端を今日はお話してみました。
 
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