2007けんざい
社団法人日本建築材料協会
ホーム お問合せ
会員団体出展者専用ページ 協会の概要 会員名簿 業種別名簿 品目・業種別分類表 統計資料 関連リンク
講演会の予定・講演録
「中国と私、40年のかかわり〜今の中国を考える」

   小橋 秀年氏

中国との出会い〜退職〜現在まで
 私と中国との最初の関わりは、42年ほど前、大学で中国語を専攻したことでした。その後、語学を活かそうと百貨店系の商社に入り、36年間、主に日中貿易に従事。2年前に退職しました。日本建築材料協会さんとのお付き合いは31年前、商社時代に始まります。訪中団を派遣される際、同行させていただいたんです。
 退職してからというもの、次は中国とは関係なく第二の人生を、と思っていました。しかし同時に、中国と関わってきたあの「40年間」は何だったのだろうか、とも考えるようになりました。というのも、尖閣問題が起こったり、戦後最悪の反日デモが起こったり、ここ最近では閣僚レベルでの交流や対話がストップしたり、沖縄の帰属について要求があったりと、最近の日中関係が大きく変わってきたからです。
 日中友好は一体どうなったのか? 今まで自分が通ってきた道をもう一度振り返ってみようと、過去の自分と中国の歴史を整理してみました。すると改めて、当時現地にいて見えなかったことが見えてきました。また、当時細切れで感じていたこともつながってきた。それらをまとめたのが今日の話というわけです。文化大革命に代表される第1期は、近代中国の原点 中国の建国以降の歴史は3期に分けられます。第1期は1949年の建国から毛沢東が亡くなる1976年までの27年間、いわば「毛沢東時代」。「社会主義革命の理想と挫折」の時代ともいえます。
 第1期には注目すべきポイントが3つあります。一つ目は文化大革命(以下、文革)。この混乱で国家の建設、近代化が大幅に遅れ、多くの犠牲者を出すなど、否定的な評価が多いですが、私が注目したいのは、文革のある一面です。当時日本は、経済成長による格差が起こっていました。進歩的知識人、一部のマスコミは、「中国は社会主義の理想社会(平等主義)の建設を目指して奮闘している」と礼賛しました。私も学生時代の訪中と商社時代の出張で、文革時代の後半に現地を見る機会がありましたが、実に鮮烈な印象を受けました。イメージは「清貧」「純粋」「人民に服務しよう!」……これは若い私にとって、中国イメージの原点̶̶父なる国、母なる国、大陸の懐の深い大人̶̶となりました。特殊な時代とはいえ、中国国民が全土でほとんど例外なく、「道徳心」を持っているように感じました。私自身、ホテルの部屋にパスポートや財布を置いていて盗まれないという事実も体験しました。少なくとも今中国で問題となっている官僚の汚職、腐敗などとは無縁の一時期があり、そのときの中国へのよいイメージが日本人のなかに長く残りました。
日中国交回復——日中の特殊な関係
 二つ目は、日中国交回復が10年間の文革中に行われたこと(1972年)。アメリカはニクソンショックで、1972年にニクソンが訪中はしましたが、実際に米中が国交を回復したのは、文革が終結して改革開放に舵を切った1979年であり、日本と中国は特殊な関係にあった一つの証拠と見ています。
 三つ目のポイントは、毛沢東が大躍進政策の失敗で国家主席を辞任、失脚し、変わって劉少奇が2代目国家主席に就いたこと。劉少奇とケ小平体制に代わろうとしましたが、文革の巨大なエネルギーを利用した権力闘争で共に失脚しました。歴史の“たら・れば”をいっても仕方がないですが、劉少奇体制が維持されたまま近代化に入っていれば、緩やかな社会主義国になっていったことでしょう。それによって、現在のような日中関係の最悪な状況は少なくとも避けられていたのではないか。文革という特殊な10年間があったから、次のステージで急激な、無理な、無茶な改革に進んで行ったのではと考えています。
改革開放、天安門事件の第2期
 第2期は、1977年〜1997年の約20年間。一言でいえば「ケ小平の時代」であり、具体的には「貧困から豊かな国への転換(改革開放)と混乱(天安門事件に代表される、民主化の挫折)の時代」。第2期は動きが大きく、ボリュームに富んだ時代です。なかでも4つの点に注目してください。
 第1点は、日中友好のピークが訪れたこと。文革の影響で経済が長期間停滞した後、国の経済状態は最悪でしたが、1978年にケ小平が来日して日中平和友好条約が締結され、中国は近代化へ大きく舵を切ります。(改革開放政策)。ケ小平は精力的に日本の有力企業を視察、新幹線に乗って日本の経済成長を目の当たりにしました。昭和天皇に謁見した際、天皇は過去の戦争の謝罪をするわけですが、ケ小平は「過去の出来事はすでに過ぎ去りました」と答え、日本に親中ムードが高まりました。
 そのころから「中国に親しみを感じますか?」という世論調査が始まりました。1980年の調査で80%が「親しみを感じる」と答えて、それが過去の最高記録となりました。(2012年は18%)。
 2点目は経済特区の設置。外国の投資、技術、生産設備など、外国資本を導入するために、経済特区を設けて起爆剤にします。以降各地で経済開発地区がつくられました。いわゆる改革開放政策で、徐々に門戸を開放していきます。ケ小平は第1期から90度の方向転換を図ったと私は考えています。しかし改革開放は一気に進んだわけではなく、保守派の反対を受けながら「社会主義市場経済」(中国式資本主義)を推し進めます。特に地方政府に開発の権限を与え、地域が競って海外資本導入に取り組みます。その後第3期に「世界の工場」と呼ばれるようになり、短期間でGDP世界2位の経済大国になります。
閉じ込められたエネルギーの表出、ハイジャック事件
 3点目はハイジャック事件の多発。1983年7月、日本建築材料協会から派遣された訪中視察団が、奇しくも中国で初めて起こったハイジャックに遭遇します。私もその視察に同行していました。これぞまさしく、改革開放で門戸が開き始めた段階であり、第1期で閉じ込めていたエネルギーが吹き出した最初の事件でした。その後しばらくハイジャック事件が多発します。これは、改革開放が進むなかで自然に収束しました。
 4点目は経済の自由化に伴って起こる、民主化の兆し。農村部と都市部の格差、沿岸部と内陸部の格差、インフレ、失業問題、官僚の汚職、腐敗、共産党に対する不満が民主化要求となって、北京など都市部から全国に広がってきます。当時、東欧、ソ連などの社会主義陣営が崩壊しつつあり、その潮流が中国にも流れ込むおそれがありました。
 1989年6月、天安門広場で長期座り込みをしていた学生や青年に人民解放軍が発砲、戦車で武力弾圧しました。天安門事件です。中国共産党は建国後最大の危機を迎え、ケ小平は政治的動乱と称し、全国で起こり始めていた民主化を武力で押しつぶす決断をしました。そしてケ小平は江沢民を後継者にして一党独裁色を強め、青年に対し愛国主義教育を強化します。天安門事件後、日本を含む世界は中国に経済制裁を加えます。
 孤立して経済が落ち込むなか、中国は日本の経済援助再開を模索。国交回復20周年の天皇皇后両陛下による訪中をきっかけに、経済制裁の雪解けが始まりました。結果的に日本が中国の経済発展に寄与したわけです。もう一つ忘れてはいけないのが、ケ小平の晩年、1992年に中国領海法が制定されたことです。尖閣、南沙、西沙諸島が中国領土化されていますが、日本の経済進出ラッシュに隠れてしまいました。また、1994年に「愛国教育実施要項」がつくられ、翌95年に抗日戦争勝利50周年で反日モードが強化され、現在に至っています。
第3期は一党独裁を維持するための時代
 第3期はケ小平死後、1998年から現在まで。「ポストケ小平の時代」「拝金主義と反日がエスカレートする時代」です。ケ小平死去翌年の1998年、江沢民が国家元首として初来日。公式の場で「日本の歴史教育が不十分で国民の不幸な歴史に対する認識が極めて乏しい」と日本の歴史教育を厳しく非難したり、宮中晩餐会で中山服を着用、天皇の面前で「日本軍国主義は対外侵略の誤った道を歩んだ」といった発言をしたりと、反日劇の幕開けを暗示しました。
 この第3期はその後、日本で小泉政権が成立、靖国問題による反日デモ・暴動、続く安部第1次政権、以降の民主党政権の誕生、中国漁船による海上保安庁の船への体当たり事件、尖閣の国有化に伴う反日暴動へと続きます。第3期は、第1期の毛沢東、第2期のケ小平といった、革命世代のカリスマ不在の時代となり、中国共産党の一党独裁を堅持するためあらゆる手段が取られ、いろんなことが起こると考えられます。
 以上中国の現代史を3期に分けてみました。整理すると以下のようになります。
 第1期は、「毛沢東の文革」と「田中角栄の日中国交回復」に代表され、「近くて遠い国」ではありますが、「日中友好」という言葉が生きていた時代。
 第2期は、ケ小平の改革開放という近代化路線のなか、その中間から日本の企業進出が始まり、中国の経済成長に多大な貢献をする。日中がウインウインの時代。第1期から90度の転換です。
 第3期は、経済成長が加速的に進み「経済大国」になる。それに伴い資源・領土の拡張、民族意識の高まり、共産党の体制維持が進みます。日本からの経済援助の依存度が低くなり、日本側の中国シフトが進んだ段階。第一期から180度の転換と考えられます。
中国の持つパワーをいかにコントロールするか?
 このように中国の歴史を振り返ってみましたが、私自身の中国との関わり、中国への思いも聞いていただければと思います。
 危険が一杯の海外出張では、ハイジャックはじめ、死の恐怖を三度味わいました。よくここまで無事にきたと思います。
 私は中国と長年付き合って、中国ならではの独特のエネルギー、パワーを度々感じてきました。他国にもエネルギーはありますが、中国は圧倒的です。竜(ドラゴン)が暴れるイメージです。文革時代には、「嵐が吹き荒れた」ともいわれました。社会主義体制で、鎖国下は本来あるエネルギーが閉じ込められていました。その後は、改革開放で道徳を顧みず、拝金主義といいますか、経済成長に精を出すエネルギー。海外留学や移民など、世界中に中国人があふれていくところにもエネルギーを感じます。
 過去の王朝時代は皇帝の絶大な権力でエネルギーをコントロールしていましたが、今では社会主義イデオロギー(建前)や、共産党の一党独裁でコントロールしています。そのエネルギーが現在、拡張主義、覇権主義、新帝国主義などで表現される方向に向かっているのは問題です。果たして中国が持つエネルギーはどこに向かうのか。それをどのようにコントロールすべきか。これは世界的な問題です。
中国は不徳の国?
 このままいけば中国は「信頼、信用されない国」になってしまいます。立派な人々もいるのに、今は経済力があるから、力で押さえつけている。テレビで中国の報道官が堂々と白を黒といい、黒を白というのを聞くにつけ、また一連の反日暴動などで、日本の大企業の工場が襲撃される「恩を仇で返す」ような場面を見るにつけ、あの清貧な文革時代はどこへ行ってしまったのだろう、と思います。
 台湾、香港は、同じ漢民族でもそれぞれ日本、英国の統治下で影響を受けて、民主化の度合い、システムは違いますが、普通にお付き合いをしています。中国(中国人)がいつ謙虚さを取り戻し、台湾、香港並みに普通の国を目指すのか……。やはり現在の体制に問題がありそうですね。
中国共産党独裁政権の崩壊
 先ほど歴史を振り返ってみましたが、その中で第3期(現在)はもはや末期的であると見ています。現体制を維持するため、隣人や世界の迷惑を顧みず、中国エネルギーが暴れまくっています。本題については巷に関係本があふれていますが、私が一番注目するのは、天安門事件で北京大学の若きリーダーであった王丹が、事件後逃亡、逮捕、入獄、亡命しますが、中国には帰国できない。台湾や日本などに来た際のインタビューで、「中国の2000年以上の王朝の興亡は、それぞれの背景はあるが、根本的には当時の役人が腐敗し、汚職がはびこり、天命で崩壊し、新しい王朝が誕生し、それが繰り返してきたものだ。現在の共産党政権も巨大な組織であり、どの王朝と比べても、最も腐敗、汚職がひどい。歴史的にも崩壊は証明されている」と発言していました。
 もちろん、あらゆる手段を講じて延命を図ると思いますが、個人的には、習近平体制は10年持たないと感じています。どんな方向に変わっていくのかは、ウオッチしていきたいですね。
「日中友好」の怪
 日中友好は、第1期では御旗が必要でした。「近くて遠い」国を少しでも近づけるためです。「戦争で迷惑をかけた、負い目がある、少しでも近代化に貢献したい……」と。しかし私は商社時代、厳しい商談の場面で、「あなたは非友好的だ!」といわれた場面が何回もありました。都合のいいことは友好、都合が悪いと非友好なのです。私は「友好」という言葉は、社会主義用語であると理解しました。
 日台親善、日米親善という言葉がありますね。「友好」は堅苦しい意味ではありますが、現在第3期に入り、日中関係がすでに大きな曲がり角を越えてしまった今となってはもう死語同然。しかし相変わらず「友好」は残っています。従来の“日中友好”団体は何をしてきたのだろうかと、不思議に思わざるを得ません。
日中関係の大きな転換期
 すでに見たように、第3期はとっくに転換期を越えているにもかかわらず、政冷経熱といって、日本の産業が多く中国に突っ込んでいきました。第3期が進んで行くなかでは、リスクが高い。「政治と経済は別だ」と考える人もいますが、中国では経済は共産党の道具の一つであることは間違いありませんから、今後どのようなリスクが出てくるのか注目すべきです。
 話は変わりますが、先日大阪で、某大手銀行の中国経済セミナーを聴きに行きました。その中で、中国がこのようなステージにあるという認識があれば、カントリーリスクについて何らかの説明があるはずなのですが、ほとんどありませんでした。日中経済団体や、銀行、地方の行政組織などが友好都市間で企業進出を進めたわけですが、中国についてカントリーリスクがあまり語られないのが不思議です。
中国バブルとの決裂、日本の地方経済の復興へ
 日本は1991年ぐらいから、失われた20年間と表現されるように、長期デフレに苦しみました。これはもちろん、中国だけが原因ではないことはいうまでもありません。しかし何らかの影響があったのは否定できないと思います。第2次安部内閣が中国とそれなりの距離を保ち、跳ねのけながら、対話のドアをいつも開けている、という姿勢は大いに評価できます。大きな曲がり角を過ぎている日中経済の一極集中から、チャイナプラスワン、ツーに方向転換されているのも自然なことと思います。これをきっかけに、地方経済(大阪含む)の復興にも期待しています。
 いつからか、中国に一極集中していったり、「これからは中国の時代だ」といわれたり、中国人が大挙して来日し、“爆買い”“爆食”していると報道されるのを聞くたびに、中国歴史のそれぞれのステージを通ってきた者の一人として、「何かおかしい、こんなはずじゃないぞ」と感じていました。やはりこれらは「中国バブル」なんだと思います。
 中国のエネルギーが何らかのシステムで分散され、普通に近い隣人になり、早く「日中友好」ではなく、「日中親善」と呼ばれる時代になることを祈りながらも、素人の“チャイナウオッチャー”として、引き続きチャイナウオッチングを続けて行きたいと思っています。
 
一覧に戻る

Copyright (C) 2007 JAPAN BUILDING MATERIALS ASSOCIATION. All rights reserved.